金孝妍展 「線ヲ思フ」

 

天神山文化プラザ(岡山)


2017/11/7



  



 
 

 

  奥の壁面には天井にまで達する一点の大作が置かれる。それをさえぎって何枚もの紗幕が、ブラインドのように吊り下げられて層をなし、行く手をはばんでいる。展示空間に合わせて、作品は一体となって、調和しようとしている。作品を孤立させて見せるのではなくて、関係性を問い直すように、時をさかのぼる。「満開の線」と題した過去のコンセプトが、空間と時間を共有している。ヴェールとなった紗幕はすべて垂直に降りる亀裂をイメージとして繰り返し、それを通過しながら奥の大作に至るという構造である。正面の大作は壁面にぴったりと収まっている。天井の高い細長い展示室は、中二階から見るとシスティナ礼拝堂のミケランジェロに似ている。

 壁画がこの礼拝堂に合わせて制作されたものだとしても、いくつかのパーツで組み合わされているので、インスタレーションとして別の展示空間でも機能させることは可能だ。ここでのテーマは「水の軌跡」で、本展のタイトル「線ヲ思フ」と連動している。偶然にできる水の跡形を定着させる試みである。水を定着させるには「しみ」を利用するという方法があるが、これは染織の仕事で、絵画では軌跡をたどり「線」の考察になるということだろう。
  
 パウル・クレーは「線は夢みる」と言ったが、クレーの線が夢想に乗せて上昇をめざす超現実のそれだとすると、ここでは重力の法則に従って下降する写実からなり、一切の空想を遮断し、現実を見つめる冷静な目によって、投げ返される。自然はすべてを含み込んでいるのだから、ちっぽけなイメージに誘導してはいけない。これがシュルレアリスム批判だ。

 会場に入る前に、入口の壁面にも作品が並んでいる。会場内の紗幕に連動するイメージの連鎖は、垂直の亀裂が現実の建築構造に寄り添うように、傷口を縁取りながら作品化されている。絵画をタブローではなくて、現実を枠づけるフレームとして機能させる。それによって壁面装飾として見過ごされてきた亀裂に目が向かう。ここで建築家の遊び心を見逃してはならない。

 そこではフォンタナのもつサディステッックなエロティシズムが、深々としたスリットの中に落ち込んでいる。そして入口から奥の壁画への導線が、実は薄っすらと色づいたヴァギナから流れ出る黒い鮮血であることに気づくと、生命感あふれる全体像が見えてくるという仕掛けである。ヴェールの一枚は、よく見るとすでに人体を宿している。インドの現代作家アニッシュ・カプーアにもよく似た作品がある。深々とした黒い穴は、豊満な生殖力を喚起する。深黒をのぞき込む神秘の穴は、多くは円形だが、ときにスリットからできていて、フォンタナと共鳴している。

さらに周到にも入口からのぞく一点に目を向かわせる。そこでは次回作のテーマが用意されている。水の軌跡をネガとして反転し、金地を燻して定着させたタブローで、完成度はたぶんこちらの方が高い。水墨の流れがそこでは見事に琳派に変貌している。もっといえば乾山の風格をめざすものか。平面を離れることが、その次にくる課題ではないのかとも思った。中央を盛り上げると巨大な硯箱のふたになる。





 天神山文化プラザは前川國男の設計によるものだ。この建築の魅力は、今何階にいるかわからない点だ。それはその名の通り、龍の住んだ山が重力をなくして、浮遊する姿に等しい。たぶんどこを一階にしようかと迷ったと思う。今回は特別展「天神山迷図」の期間中であり、併設された記念の建築展も合わせて見た。古びた図面と模型ならうんざりだと覚悟したが、ダンボールを用いたのぞきからくりのエンターテイメントに接して、感動的な鑑賞となった。さらに建物の随所に出没する木彫の猫(久山淑夫)と、ピロティの巨大な鯰(岡部玄)に、造形に向かう強い意志の力を感じ取ることができ、充実したひとときとなった。すべては場を共有するインスタレーションとはいえ、撤去されることを拒む存在感を主張していた。





by Masaaki KAMBARA