「 教 養 」 の 表 す 意 味 

人間生活と教養 No.1  ホームページ目次次のページに続く


 いまの時代における【教養】のキーワードは、《地域》、《国際》、そして《生きがい》だ。私は、『教養』が自己教育できる能力をさすものだと思っているわけだが、きみはどう思う?ここで教養論を繰り広げるつもりは毛頭ないが、歴史に登場した言葉を少し振り返ってみよう。

On honorable memory of visitting at Nightingale-Bamford School in New York, with my Japanese students of Eisu-Gakkan Highschool in Fukuyama-City, 1989  まず、『物質文明』の発達が私たちと私たちの子孫の生活に及ぼす影響を、いくつかの身近な例に照らして考えてみよう。討論という思考のろ過を経ながら、自分の意見をまとめていくことには、たいへん大きな意義がある。それは『精神文化』を創造する道へとつながっていくからだ。

『教養市民』は19世紀初頭のドイツで芽生えた。そしてベルリン大学などの設立理念にも影響を及ぼした、と考えられている。それは個性の発展と充実を何よりも重視する考え方だった。官僚や医師など高度に専門的な職業につく人々は、哲学、歴史、文学など古典の深い理解、人文的教養が求められた。

 時間を移して、1980年ごろのアメリカ社会では、これまでの《個性を重視した》教育システムが、世代間での共通の視点や常識基盤を欠く原因をつくってきた、と見なされた。そのような反省≠ェ社会的に表面化した一例として、大都市の公立学校における1990年代以降の制服採用の動きをあげることが出来る。制服着用の意義を「規律順守」や「成績向上」に見出そうとする人々さえいた。その後、ニューヨーク市の教育委員会も、市内の小学生全員に制服を義務づける決定を下した。

私は1980年代末期、日本の高校生たちといっしょに訪問したニューヨーク市内の私立ナイティンゲール・バンフォード・スクールで、まさに過渡期におけるアメリカの雰囲気を身をもって体験する機会に恵まれた。ホームステイしながらの授業ないしは授業参観では、教室や廊下における自主性を重んじた授業風景に接した。その一方で、1週間の滞在期間中には、小中高校生や教師が「生け花」「折り紙」などの日本文化にきわめて高い関心を寄せていることをも談笑の中でしっかりと感じさせられた。

何事も度を過ぎると弊害が生じる。一方の極端から他方の極端へと転変を繰り返すのではなく、社会がいわゆる《良いとこ取り》をして欲しい。


 さて『教養』の話題に戻ろう。

米国では共通の視点を担うのは《ことば》であるとして、人文・社会科学と自然科学の各分野における『教養』の条件にふさわしい“常識ことば集”が提案された(1)。同時に、そのような認識に立って、米国から日本の教育の“共通性”に対する再評価もなされた。学問的な術語や専門用語はもとより日常使われている《ことば》にも、物事を見やすくするはたらきがある。概念はすべて《ことば》によってのみ内面化され、生活世界に属する生きたものになるのだ(2)

反対に最近の日本では、教育内容の画一化を改善する必要性が議論されるようになった。今でも共通の内容にこだわらない方向づけは引き継がれている。

さらに長い教育の歴史をもつ国、ある意味で穏やかな【常識の選択】に国民を導いて行った国としてイギリスがある。イギリスの『穏健層』はドイツの『教養市民』(3)とはどこが違っていたのだろうか?それともドイツとイギリスの間での直接の大きな相違はなく、国際的な周囲の状況が偶然つくり出す歴史の流れの相異があっただけなのか?

参 考 文 献 : (1) "Cultural Literacy" by E.D.Hirsch,Jr.;Houghton Mifflin Company,
『教養が、国をつくる。』中村保男訳(TBSブリタニカ)
(2) "術語集 ― 気になることば"(岩波新書276;中村雄二郎著)
(3) "ドイツ教養市民層の歴史" 野田宣雄著、講談社学術文庫

 ここ倉敷芸術科学大学には、人間生活と教養の意義について考えていきたい、という人に集まって来てほしい。『教養』という言葉には、何か新しい【科学リテラシー】の構築とか、【総合的な科学】とかいった希望が篭められていると思うが、どうだろうか。

 いまどき『教養』=「文系」と塗り込めても世間の目はごまかされるものではない。文系でも理系でもいい、どんな分野で何を専門としても構わない、というのが本当のところではないだろうか(何をも専門としなくても、もちろん構わない)。

当学部に多い理系のスタッフにしてみれば、もっと理系の学生にも来てもらいたいのが本音、という向きもあるだろう。とくに高学年になればなるほど、ゼミ活動に実践的要素を吹き込もうとすればするほど、その思いは強くなる傾向があるはずだ。

しかし大学に進む頃というのは、ちょっと違うと私は思う。自分が文系か理系か決めかねていた君、そう―、君の考えている通り、高校で、適性テストによって決めることができなかったとしても構わないのさ。大学へ入ってから自分のコースが決まるのも大いに結構。それが教養ゼミというものなのだから。

 今日、《学問のための学問》を好む人は少ない。若者においては何をか謂わんやである。「その研究が何の役に立つか?」について、せめて大まかにでも予想が立つならば、魅力を感じることがあるかもしれない。《これから》の人に対しては、そんな優しさがあってもよいと思うのは私だけだろうか。

 そのような状況を考え、以下では人間生活をテーマとするゼミナール実験・実習活動についての考え方や、実地(教室と野外がある)の一部を紹介するなかで、これらの疑問に答えてみたいと思う。【教養】はひと昔まえのただの流行語ではない。

関連する記述は〔21世紀に寄せて〕 その他のページにもある。 次のページに続く



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