local history

 ふるさと話1 


誰にもある心のふるさと

だれの心にも故郷があります。このページでは心の中にある備後の国のこと、備中・備前とのゆかりのこと、さらにはるか昔の吉備と出雲との関わりについても、できるだけ幼い日々の想い出を再現してみましょう。

みなさんは次のような歌い出しで始まる童謡「夕日」をご存知ですか。

ぎんっ-ぎんっ-
ぎらぎら-
ゆうひが-
しずむ…

人々の胸に“郷愁”の想いをかきたてるこの歌の作詞者は、福山市の北に位置する深安郡神辺町八尋の出身で、没後すぐれた田園詩人として国際的にも高く評価された

葛原しげる*(1886−1961)

です。葛原しげる先生はいつもニコニコ笑顔を絶やさず、ピンピン元気で、みんなから『ニコピン先生』と慕われていました。先生のモットーは『いつもニコニコ、ピンピン、元気に暮らす』だったといいます。歌い出しのことばからは、夕日に染まった西の空やねぐら≠ヨ向かうカラスの群れが連想されます。葛原しげるの生家前(神辺町八尋)に建つ童謡碑を訪れてみたいと思っているのは、私だけでしょうか?井原鉄道(井原線、福山からだと福塩線)に乗って神辺まで行くだけでよいのですから。


ふるさとの花、市の花

福山市 の花≠ヘバラです。市内いたるところに色々な種類のバラの木が植えられています。みなさんは女優の緒川たまきさんをご存じでしょうか。福山出身の彼女がいちばん好きなバラというのは、花びらの数が普通のバラの2倍近くもあって、花びらの外側が白、内側が濃いワイン色のバラ、その名はニコルというのだそうです。彼女をよく知らない方でも、ドラマ新銀河 「木綿のハンカチ〜ライトウィンズ物語」でヒロイン鳥居海子の役を演じていた女性といえば、あるいは、ピーンとくるかも知れません。そのまえはSOLITON SIDE-Bで司会役をしていました。あっご存じない−。そうでしたか。

俳優ならずとも花の美しさには誰も異論はありません。福山の街の中心部には、バラの花々で構成された“バラ公園”があります。バラ公園の起源 は、空襲で空き地となっていたところに市民が誰ともなくバラの花を植え始めたことによるそうです。


高台からの景観によせて

水島に浮かぶ亀島 大学本部管理棟の前に立って南東の方角、水島地区の亀島方面を眺めてみると、かつては海のなかの島であった様子がほうふつと想像できます。行ってみるとたちどころに納得できるのですが、亀島は岩石の寄り集まりであったため周囲の海流に押し流されないで残ったらしい。頂上に上がり倉敷芸術科学大学を眺めると、あら不思議ほぼ同じ高さではありませんか、それに何か変な気持ちでもあります。いまは水島コンビナートと呼ばれる広大な平野には、いくつかの島々のあとがうかがわれます。

ここ倉敷市 から北方および西方を望めば浅口郡があります。浅口郡は5つの町から構成されています。玉島・船穂インターチェンジで知られた船穂町のほかに、金光町、鴨方町、寄島町、そして里庄町です。里庄町には仁科芳雄博士を顕彰する科学教育施設、仁科会館があります。仁科は浅口郡濱中村(浅口郡里庄町濱中)で浅口郡上新庄、下新庄、濱中(いずれも現里庄町)、小田郡関戸(現笠岡市)の4ヶ村の政務を執っていた仁科代官の末裔です。

倉敷市から2つ西隣りの街、福山市には、NKK福山製鉄所があります(岡山県西部の笠岡市 も含まれます)。写真にも見える川崎製鉄所はNKKと合併を予定しています。福山港と水島港はたいへん距離が近いので、このような2つの製鉄所は物流面で互いに融通し合うのが道理というものかも知れませんね。NKKでは常時稼動している炉は3つですが、かつては5つの炉がフル操業した時代もありました。

その全盛期に建てられた住宅が、いまはアパート群に姿を変えています。笠岡市の敷地内では、1997年7月、地滑り防止用の杭やビルの鉄柱など重量建材商品専用の加工工場も稼動し始めたようです。工業面での成り立ちは倉敷市と非常によく似ています。1998年度から中核都市として再出発しました。

キャンパスから連島-水島地区を眺望すると、おのずと福山市大門地区での丘状地からの眺めを連想します。反対に鞆の浦をいだく山の尾根から東を望めば、NKK福山工場を左手前にして、すぐ東側に水島の工場群をはっきり見ることができます(写真では、下側が福山NKK工場、その向こう側遠景の中に、写真には写っていませんが、水島工場群があります)。陸路で50km以上の道のりも、直線で結べば30数km余りの距離に過ぎません。

鞆の浦グリーンラインから東方の眺望

畳表(たたみおもて)のこと

畳表(たたみおもて)というのをご存知でしょうか。日本での生活に欠かすことの出来ないのが畳(たたみ)です。その畳の表面に張られるのが畳表。

畳表は藺草(イグサ)で編まれます。その昔ほぼ全国的に藺草は栽培されていました。そのうち、地域の特色ある畳表が石川、島根、岡山、広島、高知、福岡、熊本、沖縄の各県に限られるようになりました。中でも岡山県は日本一の藺草の生産地でした。

藺草の栽培から備後表(びんごおもて)製造までの一貫生産の歴史には由緒があります。備後表の素晴らしい技術は、農家の人々の努力によって(備後表だけではありませんが)大切に育て上げられたものです。

しかし今日、畳表の素材となる藺草の生産高では、岡山も、広島も熊本には及びません。瀬戸内の両県では、私が少年から青年になったころ、県の工業化推進行政のもとで藺草畑がまたたく間に消えていったように記憶しています。

別の現金収入の道に走ることもなく、藺草の栽培にこだわりを持ち続けた農家の多かった熊本地方では、機械化の切り換えも早かったし、また、二毛作ができたことも少しは有利に働いていたかもしれません。詳しくは成書*)をご覧ください。

    *)「御座候(ござそうろう)― 藺草と畳の文化」(岡山大学農学部 小合龍夫教授退官記念事業会発行, 平成3年 創文社)に詳しい。岡山県や広島県などでの藺草栽培の歴史については、執筆者の小合龍夫教授より直接お教えを頂戴した。ここに記して、感謝の意を申し述べておきたい。

全国的にも生産量と表替えの注文は減りました。最近は和洋いずれにも合う正方形の畳に人気があるとか、東京で畳屋を営む親戚筋から聞きました。通気性にも配慮が行き届いており、イエダニの心配もいらないということでしたが、私どもには、畳にイエダニはつきものという観念があるので、これはよく理解できませんでした。(グラフ資料は全日本畳組合連合会より)

畳機 第1号機 個人的なことで大変申し訳ないのですが、私は小さいときに耳にした大人たちの会話を記憶しています。今から65年以上も昔のことを、――現在のような機械織り作業が確立するよりずっと前のことを、―― 大家族が集った団欒の茶のみ話の中にちりばめられた、当時十代であった叔母たちの父親に対する懐古の想い出として、何度となく聞かされたのをよく覚えています。それは、畳機(たたみばた)の発明に情熱を傾けていた母方の祖父が、特許局まで申請に行ってから帰ってきた時の様子などのことでした。祖父が考案した織機は木製だったので、すぐに、大量生産される金属製の織機に追い越されてしまいました。でも、その先がけである第1号機には、

横糸の往復運動を車輪の回転と組み合わせるなどの工夫により、それまでの
手足を使った人力機から動力機への大変革の契機をつくった

という意義がありました。そのせいか今でも、藺草と畳表と畳に対して、私にはロマンあふれる独特な感慨があります。この織機は今でも、郷土資料として、福山市の「ふれ愛ランド」に保存されていると聞いていますが、脳裏にはかつての住まいの「はなれ」内の工場で見かけた映像が残るだけです。

そのむかし福山市内、山陽本線「備後赤坂」駅の東1kmほどのところに、藺草(いぐさ)試験場という国の機関がありました。しかしそれも、その使命をほぼ終えたころに、同市内の中国農業試験場(農林水産省)に統合されて元の姿を消してしまいました。中国農試においては、最近のコメ・グリコーゲンという水溶性でんぷんの発見(堀野俊郎主任研究官による発表1998年11月)にみられるように、いまでも畳表と同じような生活密着型の研究がなされているとのこと。



生産高No.1 の琴、昔の塩田、下駄のことなど

 大正から昭和にかけて、邦楽の伝統に深く根ざしつつ洋楽的要素を取り入れた新曲を次々と発表した作曲家・筝曲家の宮城道雄は、春の海鞆の浦 ののどかな海≠表現しています。地場産業で最も有名な産品の一つにがあります。日本の琴の約7割は福山で生産されています。
 「」といえば、赤穂塩 などが有名です。塩と縁の深いのが漬け物で、野沢菜で知られる信州といえば山間部で海から遠いわけですが、漬け物など全国的に広がる塩の需要は、赤穂藩の財政を豊かなものにしたと想像されています。日本の文化や日常用語としての「塩」に興味をおもちの方には、八十二文化財団 の機関誌「地域文化」No.39の特集 に収録されている対談記事をおすすめします。

同じ瀬戸内沿岸における温暖小雨の気候と遠浅の海岸を利用した大規模な塩田が、ここ福山市西部の松永湾にありました。JR(当時は国鉄山陽本線)松永駅前から南西方面一帯の平野部においては、1950年代にはまだ揚浜式塩田や流下式(りゅうかしき)かん水製造施設の跡らしきものが、そして、1960年代にも一部塩田が残っていました。福山から出て北上するJR福塩線のターミナル駅「塩町」は、瀬戸内から北に運ばれてきた塩の集積地でした。塩田を効率よく利用した大量生産の時代になると、採れた塩は船で四国地方や山陰地方まで運ばれていきました。

その帰り荷として搬入された材木は、松永の地に下駄(げた)℃Y業を生み出しました。現在この地方の下駄の生産シェアは60%くらいです。JR松永駅から徒歩5分で履物博物館に行くことができます。

 きつい靴を一日中履いたままで過ごす年月が長かったため、今では裸足になったときの快感から逃れられなくなりました。休みの日に家の近くを歩くときは、サンダルかまたは下駄を履くことが多くなりました。なにしろ通気性と開放性にはたいへん優れていますから。下駄は日本だけの物かと思っていたところ違うことに気が付きました。1996年、下駄≠竍草履≠パリのファッション美術館に持ち込み、ちょっとしたブームに火をつけたデザイナーのナディーヌ・フーレ(Nadine Fourre)さんは、

『いま「ゲタ」はフランス語になっている。』

とおっしゃいます。大学を出てから日本にやって来て17年目というこの人の熱意が実り、1997年夏‘緑のベネチア’と呼ばれるフランス南西部のドゥーセブル県の水郷地帯の農村で、東北地方や愛知県の農家の人たちによって「稲と麦のフェスティバル」が開催されました。

秋には、「ゲタリンピック」というスポーツ競技 があります。町おこしと言ってもよいでしょう。第4回目になる1997年のスローガンは「飛躍*」力あふれる町づくり。参加しようやぁゲタリンピック」とか。そこで登場するのは、重さが750kgもある巨大ゲタをさばる(引っ張る)≠ネどの珍しい競技です。


ホームページ Index Menu Once Again ふるさと 2

[ふるさと大山・蒜山] [鞆の浦] [瀬戸内和歌抄] [出雲の銅鐸]