万葉の時代
朝鮮半島突端の百済(くだら)という国から、6世紀中ごろ、王仁(わに)という人が渡来しました。日本の貴族のあいだに漢字が急速に広まっていったのは、そのころからだろうと考えられています。日本独自の文字をもたず、すべて漢字にたよっていた万葉人は、さまざまの心を表現するために漢字をいろいろにくふうして使いました。古代国家の成立を示す一つの指標は、税制度の整備にあります。大化の改新(645年) は、そのような税制を土台として中央集権体制がより強固なものとなった大きな出来事でした。しかしすでに、その100年前の6世紀前半に大和朝廷の徴税制度があったことを示唆する「調」の文字が、畿内で出土した須恵器の破片に刻まれていました(大阪府立泉北考古資料館)。6世紀前半というのは、破片の分析から生産地が同定されてわかったのですが、「調」の文字は、後世の大宝律令(701年)にも「租庸調」として登場します。
年表(参考)
できごと 関連することがら 年代 日本 中国 紀元
1 年---- 前漢
――
新弥 ――
100生
----後-- 倭国王、生口(奴隷)160人を献ずる(後漢書)―――→ 107 時 代 漢 200 ---- ---- 邪馬台国の卑弥呼、魏より「銅鏡100枚」もらう ――→
(魏志倭人伝)239 / ――
三
国魏
時呉
代蜀
――300 / 大和政権の基盤固まる / 古 晋 倭が渡海し、高句麗と交戦(広開土王碑文) ―――→ 391 400 墳 時 500 代 聖徳太子が摂政となる ................ 593 隋に遣いを送る 法隆寺が建てられる 唐に遣いを送るようになる 大化の改新が始まる-- --――――――――――→ 645 白村江の戦い ------ 唐・新羅連合軍--――――→ 663 天皇中心の政治のしくみ整う 大 宝 律 令 701 和 同 開 珎 ................ 708
6世紀から7世紀にかけて、物部(もののべ)氏、大伴(おおとも)氏、蘇我(そが)氏といった豪族(ごうぞく)がきそい合っていました。しかし大化の改新によって蘇我氏が滅ぼされると、その後8世紀にかけて、中央集権の律令国家体制がなしとげられていきます。さかんに中国の様式が採り入れられました。律(りつ)は刑法、令(りょう)は行政法のことです。
岡山県総社市の教育委員会などによって発掘調査が行われた国指定の史跡、古代山城・鬼ノ城が同市奥坂にあります。文献にはまったく記されておらず、築城の目的もはっきりしない遺跡ですが、30例近く見つかっている山城の中では最大級のものです。しかも東西南北4つの城門をそなえているのは、福岡県・大野城についでまだ2例目です。南門跡から出土した須恵器片をもとに、7世紀末から8世紀初めという実年代が特定されました。大野城と同形の門礎が見つかっており、唐・新羅連合軍 の侵攻を想定した国防施設という見方もあります。しかし当時のそういった想定そのものが幻想であったのかも知れません。鬼ノ城に関する理解そのものは不十分ですが、古代への想い・ロマンは否応なくふくらみます。
そういった緊張した時代背景は想像するしかないけれども、ともかく天皇中心の政治のしくみ が、その後まもなく完成していったのです。中国河南省に「洛陽」という歴史ゆかしい都市があります。その街の中心地に佇み、2500年昔を想像すれば、わが国の京都をイメージできるのです。日本では昔から、政治的意図を持って京に上ることを「上洛する」と言いますが、それは洛陽に由来します。
ところで江戸時代の日本が大陸文化の吸収につとめ、世界との貿易のパイプを公式に確保していたことは、しばしば過小に評価されすぎるきらいがあります。この過小評価は、明治維新に鎖国から開国へと国家の体制が一新されたことを強く認識させるのに好都合だったのではないでしょうか。もちろん「維新」の意義は大きいわけですが、その一方で、明治になると神としての天皇を中心に据えた国民国家づくりのために、7世紀末の古代「日本国」が朝鮮半島に対して抱いていた脅威 が歪曲されたとみる歴史観もあります。
さて、国のしくみがととのいつつあったころ、役人や皇族や貴族の歌人――万葉人は、哀歓を歌にたくして詠(よ)みました。あるときは、中国文化についての教養を詠(うた)いあげたりしました。なかに中国の詩文の影響がみられるのは、そのせいです。万葉集には、そのような歌が約4,500首詠われています。7世紀はじめ舒明(じょめい)天皇の時代から8世紀中ごろ、759年(天平宝字3年)までの約150年がえがかれているのです。そのような過程を経て、万葉仮名からひらがなが形成されたと想像することができます。8世紀には都を中心とした貴族の文化――天平文化がさかえます。
年表(参考)
できごと 関連することがら 年代 奈良に都を移す(平城京) ................ ............ 710 古 事 記 稗田阿礼、太安万侶 ............ 712 風 土 記 各国の国司 ............ 713 日 本 書 紀 舎人親王 ............ 720 三世一身の法 ................ ............ 723 国分寺・国分尼寺 このころ建立される ............ 741 墾田永年私財法 ................ ............ 743 東大寺の大仏ができる ................ ............ 752 鑑真が日本に来る ................ ............ 754 「万葉集」ができる 天皇中心の政治がみだれる 都を京都に移す(平安京) ................ ............ 794
出雲の国(賀茂岩倉遺跡)でたくさんの銅鐸などが埋められたのは、まさに、このような中央集権国家の体制づくりが始まったころ、あるいはそれ以前の出来事ではないだろうか? ――と思われてくるのです(たんなる私見ですが.......)。素人より地元の人々のお話に興味がある、という場合は「島根県警察ホームページ」の目次「秘蔵館」にアクセスしてみましょう。そこの賀茂岩倉遺跡の特集記事をお読みください。
出雲(賀茂岩倉遺跡)の銅鐸
1996年秋、島根県加茂町で見つかった全国最多39個の銅鐸(どうたく)、いわゆる出雲(いずも)の銅鐸は、その後、古代の出雲地方の政治勢力のようすや、さらに大国吉備(きび)と筑紫(つくし;ちくし)との関係にまで論議が発展するところとなりました。とくに、近くの弥生時代の集落跡 と関係がありそうなこと、『出雲系神話』にある「国譲り」の話との関連で、大和朝廷(やまとちょうてい)に敗れたあとも出雲には抹殺(まっさつ)できないほど大きな勢力があったのではないかという想像を思い起こさせることなど、古代への夢を追い求めるに十分な話題性(わだいせい)があります。なにゆえ突然に、かつ大量の銅鐸が、地中に埋(う)められたのでしょうか? その疑問はまだ解明されていません。次のような記紀(きき:「古事記」と「日本書紀」)の記録は参考になるでしょうか。「出雲の神宝」が倭王権(わのおうけん)に献上(けんじょう)されたのは、その管理者であった出雲振根(ふるね)が筑紫に出向いた留守の間のできごとだった。怒った振根は献上した弟を討(う)ち、王権側は吉備津彦(きびつひこ)を派遣(はけん)して鎮圧(ちんあつ)したと。しかし神話というものは、はじめ口頭(こうとう)の伝承(でんしょう)であったものが後で書き記されて記録に残り、神話と呼ばれるようになったのが一般です。政府が直接つくった記紀には、私たちにもなじみ深い「国譲り」物語がありますが、地元でつくられた『出雲国風土記』にはその記述はありません。(シンポジウム「弥生青銅器の国・大量出土青銅器のメッセージ」にて,上田正昭氏,1997.5.10)
そして新たに大和(やまと)古墳群にある古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の黒塚古墳から大量の三角縁(さんかくぶち)神獣鏡(しんじゅうきょう)が出土したことによって、『邪馬台国の位置を近畿と考えるか、それとも九州と考えるか』の話題とも関係しそうな雰囲気になって来ました。邪馬台国の後身である初期ヤマト政権は、地方の首長に服属のあかしとして鏡を受け取らせたという説があります。その論拠は、三角縁神獣鏡が魏から邪馬台国に贈られたこと、同じ鋳型で作られたらしい鏡が全国の古墳から出土していることにあるとしています。
『出雲風土記』に出てくる薬草の種類の多さは特筆すべきです。大きな砂時計で知られる島根県仁摩町の川向遺跡では、弥生時代中期ごろの層から、鉱石を溶かして金属にするときのカスが見つかっています。「振根」は銅鐸を「振る音」ではないかという推測(井沢元彦氏=作家)もあります。
