港町 ― 歴史に登場する鞆の浦


草戸千軒遺跡付近

鞆の浦にまつわる歴史

古く中世備後の国、市の中心部を流れている芦田川下流域には草土千軒屋敷 がありました。大陸からやってきた貿易船は沼隈半島の岬港「鞆の浦」からさらに十キロほど北上し、寺社・荘園の人里に近く葦の生い茂るあたりまで上ってきていました。まだ城下町として発展するよりずっと以前のことです。当時の川は頻繁に氾濫を繰り返したため、この中世の町は水の中に長い間眠り続けるところとなりました。遺跡発掘後、膨大な資料はわかりやすく整理され、福山市のJR駅から徒歩で3分の広島県立歴史博物館に常設展示されています。すぐ近くに「ふくやま美術館 」もあります。その丁寧な紹介が<広島大学付属福山中学高等学校のホームページ> などにあります。JRの駅を北に出ればすぐに、お城・美術館・博物館と身近で便利な行楽が待っているのです。

もしも鞆の浦の街並みや風景など、『これは!...』というような実物をご覧になりたいという方がおられましたら、旅人が薦める歴史と風景の街「鞆の浦」 をクリックするようお薦めします。そのホームページにある仙酔島の写真をはじめとして、すべてのページにわたり、HP作者の鞆の浦に対する愛情がはっきりとわかって素晴らしいのです。




さて備後鞆の津は萬葉の時代 から要衝の港でした。万葉集 には『鞆の浦回(うらみ=“恨み”の掛詞?)』ということばで登場 しています。

オランダ人医師シーボルト(1796-1866)は今から170年ほど前、オランダ商館長の江戸参府に随行して瀬戸内海を往復しての記録「江戸参府紀行」の中で、復路で寄った鞆の植物のことを書いています。鞆の浦は当時の風情を色濃くとどめており、下蒲刈、牛窓、室津、兵庫などとともに朝鮮通信使 の寄港地としても歴史に登場します。

福禅寺西正面入口から それでは、これから森本繁著「歴史紀行鞆の浦」(芦田川文庫 昭和60年) という小冊子を参考にしながら、備後ロマンの旅へ出かけることにいたしましょう。「歴史紀行鞆の浦」は、当地を訪れる誰もが抱くであろう感銘について、

対潮楼の座敷からは弁天瀬戸をへだてて弁天島と皇后島と、鞆公園の東部の中心である仙酔島が一幅の名画の中の景色のように望める

と、この上なく的確な表現で解説しています。【対潮楼】は真言宗福禅寺の本堂につづく客殿で広島県の史跡です。同書はさらに次のように続けています。

正徳元年 (1711) 9月、徳川6代将軍家宣の継職の慶賀を祝って日本へやってきた朝鮮信使李邦彦は、瀬戸内海を航行して東上の途中、この福禅寺に泊って、他の信使と共に庭上でこの景観を賞でながら酒を酌み交わしていたが、やおら起ち上がると、大毫をふるい、 「日本第一形勝」 と墨書した。

備後は地図の上では、西の“安芸”、東の“備中”、北の“出雲”や“石見”といった国々に囲まれた隙間地帯ですが、近隣の国々との関係において、歴史的にきわめて興味深いことがらが少なくありません。

鞆湾港 毛利氏の時代には、出雲を本拠地とする尼子氏と近い関係になった一時期もありました。そのころの瀬戸内海を中心とする因島(いんのしま)村上水軍の活動は有名です。秀吉の軍勢と毛利軍との激突で播州上月城の落城を期に滅亡した尼子氏の家臣のなかに、山中鹿介(しかのすけ)がいました。山中鹿介をはじめとする尼子十勇士の活躍にもかかわらず、その後、永禄9年 (1566) に富田城は落城します。さらに鹿介らは落ちのびた助四郎勝久を大将とあおぎ、織田信長の力をかりて尼子家再興をこころみましたが、勝久は天正6年 (1578) 自害して果てます。そのとき鹿介は毛利軍に降伏したため、輝元の首実検を受けるべく備中高梁城へ護送されました。しかし輝元が小幕府備後鞆の津に行っていたので、今度は西へ転送されることになりました。その途中、高梁川阿井の渡し (甲部川) であとから川を渡ってくる妻子を待っている間に背後から斬りつけられて、あえなく最期を遂げることとなってしまいます。鹿介のむくろはその阿井の渡しに近い観泉寺(当時)に葬られたとされていますが、首だけは輝元の本陣となっていた鞆の静観寺まで届けられました。今でも、その墓地は高梁川の土手近く、車で通る観光客に対してもわかりやすい案内標識とともに残されており、もうひとつの墓所(首塚) も鞆の街なかにあります。


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