港町 ― 歴史に登場する鞆の浦2


鞆の浦にまつわる歴史(つづき) 室町幕府が崩壊したのち一時、信長から逃れて紀伊国に身をおいていた足利義昭は、織田氏と毛利氏との対立が決定的となったことを見抜くや天正4年 (1576) 2月、わずかな従士たちを連れて備後の鞆の津にやって来ました。その後しばらく、鞆は義昭小幕府となります。義昭自身にとっては、『ここに一時的に幕府をおく』という意味がありました。そのころ、備後国『鞆』は、毛利元就の孫にあたる輝元の治世下にありました。


山中鹿介首塚 銀閣寺


NHK大河ドラマ“毛利元就”をご覧になりましたか。あっ、そうですか。

広島空港に行くと、ちょっとしたハイキングコースがあって、その中に“毛利元就”のタイトルバックを撮影した滝があります。

それはともかくドラマの中で、尼子のはなった刺客のために隆元(元就の嫡子)が急逝した後、その子輝元が元服するおり、将軍足利義輝の名から一字をもらい受けるにあたって、『上の文字義≠与える』というのをわざわざ断り、『下の文字輝≠頂戴する』というくだりがあります。元就は長男隆元の死後、いったんは毛利家の実質的な当主に戻らざるを得ませんでしたが、まもなく孫の輝元に家督を譲ります。鞆小幕府は、その元就終焉からさらに月日がひとまわり流れた頃のことです。

同年7月、信長勢に包囲され苦戦していた石山本願寺に兵糧を搬入するための兵糧船6百艘と、その護衛のための兵船3百艘が鞆の津を出航し、首尾よく事を成就します。毛利軍にとっては、または鞆幕府の足利義昭にしてみても、最盛期の頃のことでした。しかしその毛利の水軍も、同年11月には、織田方の九鬼水軍によって壊滅的な打撃を受けることとなります。

福山市を付け根に抱く沼隈半島を尾根づたいに南下し、美望グリーンラインの終点手前で鞆海岸に降り立つと、その海岸の埋立地に、鉄工所などの工場群が寄り添う工業団地が見えてきました。かつて錨(いかり)や船具などを造っていた鍛冶屋の町鞆の浦≠フ姿を想い浮かべさせる場所です。

毛利元就という人は発信書簡の数の多さ、近隣諸国との戦いぶり、あるいはその知略などにみられるように、今でいう国際交流に意を尽くした人物であると想像されます。みなさんは、そのへんの事情を“毛利元就”に関する数々の書籍や放送を通じて、よくご存知のことでしょう。


弁天水道 鉄工所団地 いろは館

少し北へ目を向けてみますと、戦国時代の尼子氏にゆかりの島根県広瀬町 では、月山富田城跡付近は大変きれいに整理されています。私たち観光客に対する配慮も行き届いています。広瀬町は4県(島根・鳥取・岡山・広島)の県境16市町村で構成されるエメラルドシティー 群の一番北側に位置しています。

備後地方も豊臣秀吉の時代よりのち、大阪の文化・経済の影響をいっそう強く受けたことでしょう。備前・備中とほぼ趣を同じくしたのではないでしょうか。徳川氏の時代になると、家康の従兄弟の水野勝成が福山藩主となります。愛知県岡崎市と福山市は、その関係もあってのことでしょうか、姉妹都市の関係を結んでいます。

もの心ついてからの記憶をたどり、子守りばなしの徒然に聞いた話しことばの語尾の抑揚、いろいろな方言などを思い起こしてみると、備中と備後は海路・陸路を通じて、長く、深く生活文化の面で交流があったであろうことが想像されます。とくに現在の鞆、その北の田尻、水呑、草戸‥あたりの方言に「岡山」を感じるのは私だけでしょうか?

杏の花(福山市立高島小学校にて)
たとえば田尻町は西日本有数のあんず≠フ生産地として300年におよぶ栽培の歴史を守り続けています。出荷時期は6月中旬から下旬にかけてですが、現在の生産者は50数戸、出荷高は2〜3トンで、毎年地元福山と岡山市場への出荷で知られています。1997年からは自然風味で(凝固剤、防腐剤や着色料を使っていない)歯ざわりのよいあんず<Wャムも加工、販売されています。

同じ頃、福山ならではの風情にクワイ≠フ植え付けがあります。こちらは生産者100戸ほどで、日本一の出荷高を誇っています。

備後のぶどうはピォーネ≠ニニューベリーA≠ニロザリオビアンコ≠ナす。7月上旬から10月上旬までの出荷先は瀬戸内沿岸と山陰、大阪方面ですが、あいにくマスカット≠ナ名高い岡山市場への出荷ははかばかしくありません。

江戸時代末期に鞆港に面して建てられた木造二階建ての土蔵があります。現在はいろは丸展示館 として使われている土蔵の造りは正面が白壁左右側面は瓦張り の「なまこ壁」です。「いろは丸」というのは、坂本龍馬らが乗り込み、瀬戸内海で紀州藩船と衝突して沈没した海援隊の船のことで、現在それに関する展示館として使われているのです。古い土蔵と展示品から、幕末の雰囲気をうかがい知ることができます。「いろは丸展示館」は、国の文化財保護建造物に登録されました。

ところで、古代の山陽と山陰との関係はどうだったのでしょうか。吉備の国と大変関係の深いのが出雲の国です。1996年秋、島根県賀茂町岩倉で見つかった全国最多39個の銅鐸、いわゆる賀茂岩倉遺跡の銅鐸 は、その後、出雲地方の政治勢力の様子や、さらに古代の大国吉備と筑紫との関係にまで論議が発展していますが、ご存じですか?



倉敷の地によせる思い

倉敷の街はこころ休まるところが好きです。美観地区 はもちろんのこと、近くの鶴形山公園にのぼって近くの街並みや遠くの方をながめるのもまたいい気分です。

倉敷芸術科学大学からは、水島コンビナートの向こうにのどかな瀬戸の海を望むことができますが、これは同じ瀬戸内のいろいろな風景と比較して、たとえば、備後の国 《三原》と安芸の国《広島》を海岸線沿いに結ぶJR呉線からながめられる『風早』あたりの景色や、カブトガニ博物館で有名な笠岡 の沖合いに浮かぶ島々の眺めなどと何かしら共通点があるようでもあり、また一味ちがった趣もあります。少なくとも、土佐清水市や日御碕灯台などから眺める外洋の印象とはだいぶ異なっています。いずれの地域にも人々の生活があります。

生活の大部分を自然に恵まれた備後の田園で過ごしてきた私にとって、地域は自己のアイデンティティーを仕事とはべつの側面から意識させてくれる有意義なものです。思いがけない新しい発見があり、自分では見過ごしていたことを新たに知る場所でもあるようです。歴史のまち鞆に関する想い出の中では、かつて鞆の街から 数キロ西方、海に突き出た高い石垣上の不思議な楼閣【阿伏兎観音堂】を訪れたときの印象が特に強くよみがえってきます。小学生のころのある夏休みの日の早朝、鞆の親戚の家から出漁する船に乗せてもらったのは良かったのですが、生まれて初めてのひどい船酔いを体験してしまいました。

子どものころから何度か鹿介の墓前に立ち、そこにある説明を読んでいたはずです。しかし上記のような歴史的背景を理解したのはつい最近のことでした。(1997年1月記)


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